命があればあとはかすり傷

命があればあとはかすり傷

今回は、僕自身のことについて書かせて頂きます。不慮の事故により脊髄を損傷、車いすでの生活…。僕は、障がい者デビューして6年経ちましたが、健常者の時にはなかった新たな価値観が生まれ、今の人生を心から楽しんでいます。夢実現に向かってポジティブに生きることができている原動力やその理由について、ほんの一部ですが書かせて頂きます。

意識不明からの復活

2009年6月20日。不慮の事故に遭い、病院に救急搬送。搬送後すぐに緊急手術となりました。おおまかに言うと、複数の肋骨が粉砕骨折したことにより、肺が破れ、胸の中に空気と血液がたまるという大変危険な状態でした。手術から3日後、運良く意識不明の状態から脱することができました。目を覚ました時、何が起きたか全くわからない状態でしたが、病院にいることと、瀕死の重体だということはすぐに分かりました。それは、目と首を少ししか動かせない状態でも確認できた、体から出る十数本の管、人工呼吸器、心音のモニター音によって、ただ事ではないことが自分でもすぐに理解できました。
意識を回復させた後、父からこんな言葉をかけられました。「訓平、(中略)命があればあとはかすり傷だな。」と。当初、僕はこの言葉に深い意味合いを感じておりませんでしたが、父は見舞いに来る度に必ずこの言葉を僕に言い続けてくれました。
主治医から、命の危険から脱したものの、背骨と右大腿骨が骨折しており、その手術が必要だと説明されました。この時、まだ脊髄を損傷していることは宣告されていませんでした。

通常、このような状況の場合、早急に患者に事実を宣告し、早期に受容(障害を受け入れる)できるようにするものらしいのですが、両親がこの宣告を引き延ばしてくれていたようです。

理由は、僕が受容するには時期尚早と考えていたから。「命があればあとはかすり傷」の言葉を、僕が心から理解できる為の時間を稼いでくれていたのだと思います。

宣告は7月14日。事故から24日後、主治医から背骨のレントゲンを見せられ、「落ち着いて聞いてください。大塚さん、あなたの脚は一生動きません。一生車いす生活となります。」と宣告されました。僕は、その直後「はい、分かりました。」と応えることができましたが、理解したことと感情は完全に反比例し涙が止まりませんでした。それは、宣告時のカルテを見ると良く分かりました。「やっぱりショックで泣きました。でも、すごく自分はポジティブなんで多分大丈夫です。(中略)命があるだけでもありがたいと思ってます。」と記されています。見舞いに来る度に父があの言葉を言い続けてくれたことで、本当の意味を理解でき、すぐに受容できたのです。その日は泣きながら眠りましたが、朝起きてすぐに『カッコイイ車いすに乗りたい!』と思いながらインターネットで早速車いすメーカーを調べてたくらいです。

当たり前のことに感謝

この身体を手にしたことで気付かされたことがたくさんあります。

気管切開され人工呼吸器をつけていたことから、自発呼吸できることのありがたさ、話せることのありがたさ。たった3日間の意識不明の状態で筋力が衰え、ボールペンさえも重く感じたことで、腕を自由に動かせるありがたさを。目が見えること、鼻で匂いが嗅げること、耳で音が聴こえること、味が分かること、脚に触って分かること。60兆個もの細胞が正常に動くことは当たり前のことではなく、ありがたいこと、感謝すべきことだということを教えてくれました。

新たな価値観

命があればあとはかすり傷生死をさまよった事で、生きる事に貪欲になりました。そして、この身体だからこそできることを見つけ、それを社会の為に活かし、ビジネスにも繋げること。その為、トータル5ヶ月半の入院期間中に約50個ものビジネスモデルを考えました。今、社会貢献や仕事としてそれらの一部を一つずつ実現させることができています。
人生は一度きりしかありません。両親からもらったこの命に感謝し、悔いなく生きること、命を使い切ることが何よりも大切だと思いました。だから全力で、今の障がい者人生を楽しむことができています。障がい者になったからこそ、生まれた出逢いやご縁。

「今の人生の方が豊かになった。」と胸を張って言えます。
「命があればあとはかすり傷」この魔法の言葉を胸に、社会を変える仕事に邁進して参ります。

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